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トップページ評価の基本評価のQ&A人事制度の基本有名人の評価言いたい放題掲示板

      言いたい放題 16  
    76.あったらいいなと思うもの  
     私が知らないだけかもしらないが、こういうものがあればいいな。もしあったら教えてください。

1 携帯用液晶モニター

 プロジェクターを使うほどの人数ではなく、スペースもなく、2・3人の人にプレゼンテーションしたい場合、あるいは、エクセルシートの内容を伝える場合、ノートパソコン形式の液晶モニターがあると便利。ノートパソコンに接続して、自分用と顧客用のモニターで説明できる。ありそうでないみたい。
 5.5インチくらいの携帯モニターはあるみたいだけれど、15インチくらいのものがあると便利。

2 聾唖者向けコミュニケーションツール

 文字入力したものを音声出力するPDA。直接チャットもできるもの。これで、聾唖者は手話の知らない人に話し掛けられる。同じ物を持っていれば、チャットで会話ができる。

 この機能を、携帯電話に標準装備すれば、手話ができなくても、聾唖者とコミュニケーションが取れる。

3 携帯電話の時刻修正サイト

 パソコンの場合、インターネットで自動的にPCの時計を正確な時刻に修正できる。(xpは標準装備、それ以外は桜時計などフリーソフトが必要)

 携帯電話でも、例えばiモードなどで、どこかのサイトに接続すると、自動的に正確な時間に自分の携帯電話の時刻時計)が修正されると、すごく便利。もうすでにあったら教えてください。

4 ペットの葬儀

 ペットの葬儀屋さんはもうすでにあると思うけれど、ペットの葬儀セットをホームセンターなどで安く販売してくれると助かるかも。値段に応じてそれなりのセットにしてあれば、必要に応じて選定できる。

 小さい子供の情操教育から、家族動物としての葬儀までいろいろ選択できる。

5 その他

 ぬいぐるみ製造業者の方へ、一つよいアイディアがあるのですが、・・・・。
 私のアイディア、現実にしませんか?

 

 
    77.努力は早い方がいい  
     当たり前のことだと思うけれど、同じ努力をするのなら早い方がいい。
 例えば、自動車の免許。数十年前に約1ヶ月間、それなりの努力をして免許を取った。おかげでそれ以来、数十年間、車の便利さを享受している。あの時、取得しないで、今、1ヶ月ほど努力すれば同じように自動車免許は取得できるであろうけど、過去数十年間の便利さの享受はもうできない。

 昨年10月ころ、エクセルの本を買ってきて、1日読んでみた。それまでも、エクセルは仕事で使うので、それなりに使っていたが、もっと便利な機能や関数があるだろうと思って、1日それなりの努力をしてみた。おかげで、色々な使い方がわかり、仕事の効率が飛躍的にアップした。今日、それなりの努力をしてもそれなりの使い方はわかるであろうけれど、過去4ヶ月間の効率アップは享受できない。

 できればいいな、知っていたらいいな、と思ったものは、早く得た方が得である。それを得るための努力が同じなら、早い方がより多く活用できるから。

 また、同じ100の努力をするのであれば、毎日1づつ努力して100日で100するより、一気に100した方が得である。その後ずっと100の恩恵を受けることができる。1づつの努力では、最後は100になっても、恩恵は三角形の面積になり、半分しか享受できない。

 そういえば、先日ラジオで天才は、エンジンがかかったら一気に勉強する。時間を忘れて打ち込む。凡人はエンジンを暖めたり冷やしたりしているので、効率が悪い、というようなことを言っていた。少しづつ努力する、毎日努力することが美徳のように言われるが、同じ量の努力をするのであれば、一気にやった方が、効率もいいし、効果があるのではないだろうか。

 もっと若い時期に、気がつくべきであった。(後悔)

(努力というといろいろなとり方があるので、例えば、知識を得るための本を読むことと限定すると、あっているのではないだろうか。)

 

 
    78.人生は自己責任  
     以前、山一証券が倒産した時、テレビでインタビューを受けた社員が「自分が選んだ会社ですから、しょうがありませんね、これからがんばります。」ときっぱりと言っていた。経営者や政府や金融機関に対する恨み言を一切言わず、「自分が選んだ会社ですから」ときっぱり言い切った姿はすがすがしさを感じた。今でも覚えている。さすが山一証券の社員と思った。

 今の日本では多くの場合、「選択の自由と自己責任」が当たり前になっている。その会社に入るのも自己責任、その仕事をしているのも自己責任、親からの勧めや先輩上司からの勧めがあったとしても、最後にそれを選択したのは自分自身。勧めた人の責任ではなく、それを選択した自分の責任。仕方なくしているのも自己責任。自分に責任を求め、自分を変えるから(改善するから)、成長する。他人の責任にして恨み言を言っても、何も進歩しない。

 自立している人間は「自己責任」を自覚しているが、他者依存人間は「自己責任」を知っていても責任が取れない。最後は他人の責任になるように自分を説得してしまう。

 他者依存人間は「〜〜させられている」「〜〜しなくてはいけない」などの表現をよく使う。自立人間は「自分が〜〜している」ということをを自覚している。他者依存人間が「〜〜させられている」と錯覚していることは、実は、その指示や命令に対して最後は自分が判断して(それがよいと思って)受け入れ、自分がしているのである。まず、そこに気づくことが自立人間になるの第一歩である。
即ち、自分の行動はすべて最終的には自分の判断、自分の意思であるということである。

 そして、もう一つ大事なことは、その行動を選択する能力を上げるということであろう。
現実にはいろいろな働きかけがある。無言のプレッシャーもある。それに対してどのように反応するか、どのような反応を選択するかという能力を磨くことが必要である。

 例えば、長時間のサービス残業を求める色々な働きかけ(直接的、間接的)に対して、どのような反応するか。その場の雰囲気に負けて、それを受け入れ、悔しい思いをするか、それを拒否して、冷たい目で見られるか、一旦自分が受け入れておきながら、後で訴えるか、機転の効いた対応をして、何の問題もなく仕事をするか。(そもそもそのような会社にいること自体、自己責任なのだが)

 世の中には、自分にとって不都合な働きかけが結構ある。それに対して、どう反応するか、どのような反応を選択するか、これが自立人間に求められる。目先の心地よさだけでなく、短期的・長期的、個人的・全体的によく考えて、自分の人生観に照らし合わせて、自分にとって正しい選択を行う能力が必要である。

 この能力は、自分の選択した行動の結果については、すべて自己責任であるということを自覚することで、高めることができる。

 もちろん、病気やケガ、その他の理由で「選択の自由」が制限されている場合は、その分「自己責任」も制限されるであろう。

● 「自己責任」自覚度チェック

  質問 C
現在の自分は過去の自分の行動の結果だと知っていますか?  
将来の自分は現在の自分の行動の結果だと知っていますか?  
自分の行動はすべて自分の判断であると知っていますか?  
自分の判断が自分を傷つけ、自分を癒すということを知っていますか?  
自分の人生の主役は自分であると知っていますか?  
周りを変えるより、自分が変わる方が簡単であることを知っていますか?  
自分が変わると周りも変わるということを知っていますか?  

 

 
    79.報道機関は年功制  
     いくつかの放送局や新聞社の話を聞いたが、人事制度はガチガチの年功制となっている。話によると他のマスコミも横並びで皆そうだということである。(実際はわからないが)
ということは、2時代遅れた人事制度に浸っている記者やキャスターが、最新の人事制度の報道を行っているわけであり、そこに、間違った報道や大げさな報道が繰り返される原因があると思う。

 今マスコミで定昇廃止と報道されている企業は昇給廃止とは決して言っていないはずである。今までの年齢や勤続で自動的に昇給する仕組みをやめて、能力や成果に応じて昇給するような形に切りあえるというようなことを言っているだけである。そんなことは中小企業では5年も前から検討していることであり、そのようにしている会社はたくさんある。

 ところが、年功制に浸っているマスコミの記者は、年齢や勤続イコール賃金(昇給)と思い込んでいるから、年齢で昇給が決まらない仕組みというと、即定昇廃止となり、解説で昇給ストップ、中には賃下げと言うものまで出てくる。

 時代は年功制から能力主義、そして成果主義に進歩している状況で、年功制しか知らない人が成果主義の状況を報道することにはかなり無理があるような気がする。
 例えがいいかどうか「そろばんしか使えない人が、電卓を飛び越えて、表計算ソフトの批評をするようなもの」と言えよう。いつも表計算ソフトを使っている人には当たり前の機能でも、そろばんを使っている人にとっては驚きであろう。

 しかし、自分の驚きが世間の驚きではないと言うことを自覚すべきである。その驚きを無節操に報道されることで、更なる問題が生じている。

 例えば、
 定昇廃止と言葉だけが一人歩きして、賃金ストップや賃下げの口実に使われている。
 日本の企業みんなが定昇廃止のようなイメージを与え、それが当たり前のような印象を与えている。などなど

 もうちょっと冷静な分析と判断と報道が必要なのでは。
注目されるための大げさな報道は、世間をミスリードすることと肝に銘じて欲しい。

 

 
    80.高校時代の言いたい放題  
   
 高校2年生の時の「文集」が出てきた。授業とかではなく、受験勉強の最中、気分転換で自主的に作ったものである。結構生意気なことを書いているなァ。

● 巻頭言

 自分がしたいと思っていることをする時間がないとこぼすものは、概して怠惰なものである。実際は、人はたいてい、なそうと思うことに対しては、時間を作ることができる。
 たりないのは、時間ではなく、本当は意思である。
 私はこの文章の主旨に基づいて、この文集を編集します。1971年2月8日

● ものごとの考え方

 ホームルームなどで討議している時、」私の場合は・・・・です」とか、「私の場合は・・・・なので・・・の方がよいと思います」と、自分の場合について、いっている者が多いが、私はそれを意見ではなく、単なる自己主張だと思います。

 例えば、長髪の者が「髪が乱れるから帽子を着用しない方がよい。」といい、短髪の者が「頭が寒いから、帽子を着用した方がよい。」と言って、二人がどれだけ議論しても、絶対に結論は出ないでしょう。なぜなら、それらは、お互いの条件にあった主張であり、条件が違うもの同士が一つのことにいくら議論しても意味がないからです。そして、それらの主張をいくら言い合っても、それは少し口がうまくなるだけで、その命題の真髄を考えたことにはならないのです。
 それではどうすればよいのでしょう。
 それにはまず、利己を捨てなければなりません。つまり、無の状態になるのです。すべての条件を取り去り、自分の意見を左右するものをすべてなくするのです。自分が長髪だということも、短髪だということも忘れるのです。そして、全員が同じ状態に達した時、全員の条件は等しいといえます。そこで初めて、与えられた命題について考えるのです。前の例で言いますと、帽子が必要か否か、帽子の真髄について考えるのです。その状態のものの主張こそ意見といえるのです。そして、その意見による討議で得た結論に自分の条件をあてはめるのです。
 要するに、自分の条件にあった主張をするのではなく、真の意見による結論に自分の条件をあてはめることが、本当の討論・議論といえるのではないでしょうか。
 

● 真のサービスとは

 駅などで、列車発車の合図としてベルが鳴らされているにもかかわらず、ゆっくり歩いている者がいる。
 それは、自分より後ろにまだ人がいるとか、自分が乗るまで発車しないであろうという甘い考え方でいるからであろう。そして、それらの人は、これが乗客の当然の権利だと考えていて、駅員もそれがサービスだと思っているのだろう。
 混雑している場合は除いて、乗客が全員乗っていようといまいと、発車時間がきたら列車を自動的に発車したらどうだろう。乗り遅れた乗客は、駅員に対してサービスが悪いなどと文句をいうであろうが、時間に遅れてきて、そんなことを言う資格があるのであろうか、いや、ありはしない。
 そんな乗客を待っている間、早くから列車に乗って発車を待っている人々は、どれほど不愉快な気持ちを持つか知れない。
 時間通り発車することが発車を待っている人々には、本当のサービスになるのではないだろうか。
 私は時間通りの列車の運行を希望する。
 

● 三島由紀夫の死について 

 1970年11月25日。作家三島由紀夫が割腹自決の壮絶な死を遂げた。私はその事件を知った時、彼についてあまりよく知らなかったので、「バカなやつがいるものだ。」としか思わなかった。その当時、私は自殺を絶対的に否定していた。
「どんな理由、どんな方法であろうとも自殺してはいけないのだ。自殺とは、忍耐力がなくこの社会悪、人間悪に耐えられないもののすることだ。社会競争に負けた弱者が、この社会から逃避するために自殺するのだ。悩めるものが最も簡単な解決法として死を選ぶのだ。オレは絶対に自殺なんかしない、どんなに苦しくても。与えられた人生を最大限活用するのだ。」
 私はこういう信念を持って、自殺した人を同情する以上に軽蔑してきた。彼、三島由紀夫の場合もそうだった。

 しかし、約1週間後、彼の小説の2・3を読み、彼についての幾多の資料を見たとき、私の信念はくずれざるを得なかった。自殺の理由が私の考えていたもの以外にもあったのだ。それは、美を追求するためであり、自己主張を極限に表現するためだ。
 そして、私の死に対する考えは180度転換した。私は死が美しいものだとは思わないが、その神秘性には多分に心が引かれるようになった。そして、死ぬ時をすでに決めた。人生において最も盛んな頃、つまり英雄になった時死ぬということだ。彼は死んだ時最高のものを見出したが、私は最高のものを見出した時死にたい。このように私の考えが変わった。

 「ものに入ってその微のあらはれて情感ずるや句となる。」(三冊子・服部土芳著)に見られる芭蕉の精神に則って、彼は自分が最も美しいと考えるもの、つまり死と自分とを一体化し、その本質を掴み取ろうとしたのだ。死が美しいかどうかはさておいて、この精神は文学者として、最高のものではないだろうか。

 また、憲法改正による軍隊の復活や、天皇制が最高だという彼の考え方には賛成できないが。自分の主張を最大限に表現するために死ぬという考えには賛成できる。相手に最も刺激を与える人間の行動は死なのだ。その死によって、自分の意見を主張したということは社会人としても偉大ではないか。ゆえに、私は、いや、私たちは彼の自殺を賞賛し、彼の偉大さを永久に忘れてはならないのだ。

 他にも色々あるけれど、高校生の時から結構理屈っぽかったのだなと思う。
三島由紀夫についてはすっかり忘れていた。当時は若かったし、影響を受けやすかったのであろう。懐かしいとともに、気恥ずかしい感じである。